つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)

活動報告・国会質問・質問主意書

日本外国特派員協会で記者会見をしました

2010.8.5

国会ブログ

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2010年8月4日
日本外国特派員協会 (FCCJ) 会見内容
みなさん、今日はお招きいただきましてありがとうございます。
私は、先週の火曜日、7月27日に社会民主党に離党届を提出致しました。
いまは預かりということになっておりまして、まだ受理はされておりませんので、離党したという表現は正確には正しくありません。
前回はここに政権離脱のおりにお呼びいただきました。今日は離党に至った理由や、これからどうしたいかをぜひ聞いていただきたいと思います。
まず三つ大きなバックグラウンドがあります。一つめは、昨年の政権交代この意味を後戻りさせたくない、そのためには自分がどういう行動をとればいいかということです。二つめは、これは極めて個人的なことですが、私の政治姿勢というか、政治への取り組み方、手法の問題です。三つめは今後の流動化する政治のなかで、どういう勢力が日本の政治にとって必要かということを考えました。
まず二つめの政治手法ということを、自分のいままで歩んできた道をみなさんにお伝えすることで、説明したいと思います。
私は大阪で生まれています。大阪の小さな商売人の娘なんです。ですから、私は社民党に所属しておりまして、その前身の社会党は労働組合などに支えられた政党でしたが、私のオリジナルはどちらかというと商売人なんです。
大阪では小さいときから商売を手伝っておりまして、「落としどころを見つけてなんぼのもんや」というのが大阪の商売人のスタンスなんです。
ですから、自分の言い値が全部通らない、しかし譲歩するところは譲歩して、調整してお互い共存していく、これが大阪商人のやり方です。私の政治手法もどちらかというと、大阪の根性がしみついていまして、お互いに100%意見が通らなくてもどこで調整していくか、それで少しでも政治を進めていくというのが私の手法です。
「総理、総理」ばかりが報道されて(笑)、あれが私の姿だと思ってらっしゃる方も多いんですけど、あれは一瞬のできごとなんですね。「小泉さんとの『食い合わせ』が悪かった」と言ったら変ですが。
あれも私の一面ですが、どちらかというと、もう少し現実から逃げず自分の言いたい理想や理念を達成するためには、言い分だけ言うんじゃなくて、現実から逃げずにその矛盾と格闘しながら、調整をかけて物事を進めていくという方が、本来の自分の姿だと思っております。
「何の話しをしているんや」と思わずに、忍耐をもって聞いていただきたいと思います。(笑)
それで、ちょうど私は一九八三年、二七年前にピースボートというNGOを作りました。当時は冷戦構造のまっただ中の時代でした。そのときに平和運動などに関心があったので、そういう集会や勉強会などに私は出ておりました。しかし東西が対立するなか、お互いに「反対反対」と言ってスローガンだけをかかげあう、そういう運動に違和感を感じて、ピースボートという新しいNGOを立ち上げたのです。それは一万トン級の客船をチャーターして、冷戦構造のまっただなかで東西に分かれている国々を、当時は五〇〇人の日本の若者が訪問することで、具体的なアクションで、冷戦の壁を低くしていこうというNGOでした。
当時旧来型の平和運動や市民運動からは、遊びだとか不真面目だとか、多くの批判を受けました。確かに物事を新しく作るときには、現実の矛盾ともぶちあたる。口でスローガンだけ言っているのだと美しく完結できるのですが、実際に物事を動かしてひとつのムーブメントをつくっていくときには、現実から目をそむけることはできないんですよね。それで、いまはのべ数万人の人たちがピースボートに参加し、世界のNGOとのネットワークや、国連とも協働で平和を作るプロジェクトをやっています。
私は、具体的に物事を動かして、成果をしっかりつくるという、それが社会を変えていくために大事だと考えながら、三六歳になる一九九六年まで、ピースボート活動をしてきました。
その後一九九六年に、当時の社民党の土井たか子さんから立候補要請があって初当選をしました。当時は自民党と社民党とさきがけの連立政権のなかに、私はいきなり入りました。いきなり自民党といっしょにやる政権に放り込まれたのです。市民運動とかNGOをしている者にとっては、自民党といっしょに政権を組むというのは考えられなかったのですが。
私は、せっかく政権にいるから、「とれるものをとったれ」というのは変やけど、成果をあげようと思ったんですね。当時は自民党二三九議席、社民党一五議席でした。しかし社民党の一五議席が賛成しないと法案は一本も通らないというキャスティングボートを握ったわけです。それで、当時NPO法という法律をまず作りました。これは日本ではまだなかったんです。もう自民党は反対の大合唱だったわけですが、キャスティングボートの力を使って実現しました。情報公開法もこのときつくりました。環境アセスメント法も私が担当しました。男女共同参画社会基本法も国家公務員倫理法もこのとき道筋をつけました。私は一年生でしたけれど、キャスティングボートをとって政権の中で働くという意味を痛感しました。
とくに小さな政党にとっては、どのポジションにいくかによって、政策実現への道が遠のいたり近づいたりするということを、一年生議員のときに思い知ったわけです。
そのとき自民党の竹下登さんから教わった言葉がありました。「政治の場では、自分の主張が四割通ったら御の字だ」と。そしてその後社民党は連立政権を離脱しました。そしてその離脱した後に、私たちが政権で止めていた法律がどんどん成立しました。周辺事態法です。それから盗聴法。社民党は憲法九条を守るという政党でしたけれども、憲法調査会というのが立ち上がりました。
このときに、政権のなかで成果を上げるものはあげようということと同時に、政権を去ったら、はたして自分たちがめざしていた方向が良くなったのか悪くなったのかと考えたときに、去ったとたんに私たちの側からみたら、とたんに右傾化が始まった。そこで危機感を感じて、自分たちが政権を去ったことがよかったのかどうかと思い悩んだ経験が一年生のときにあります。
これは小さな政党にとっての宿命なんですね。連立政権時代になっていますから、どういう組み合わせがよりマシな政権か、という選択になります。キャスティングボートをとる政党によっては、良くなったり悪くなったりするわけです。
その後野党になってからは、政権を奪い返そうと「総理、総理」になったわけです。自民党政権を野党共闘で倒す、と邁進したわけです。そして昨年、本当に長い時間をかけて、政権交代を果たした。ですから私にとっての去年の政権交代というのは、そういうプロセスをへて、現実的に自分たちの政策を実現するための政権交代であると、非常に強い思いをもって、いままでの人生の中で最大のエネルギーをかけて、去年の政権交代の一点に向けて働いてきました。
ですから昨年、政権が崩壊したときは非常に大きな落胆がありました。社民党は普天間の問題は譲れない一線ですから、これで政権を去るというのは仕方のないことだと思っていました。そしてその後参議院選挙がありました。この後、社民党がどういう方向で政治の立ち位置を定め、活動していくのがいいかということを、私なりに考えました。
私はやはり、社民党が大きく得票を減らしてしまったことに、すごい危機感を持ちました。社民党をご支持していただいていらっしゃる方々の支持をしっかりつなぎとめて、少しでも増やしていくためには、私はやはり、社民党の本来の姿を出して、反対するところは反対する、権力の暴走を止める役としてがんばっていく方がいいのではないか、と考えました。「政権とかに入ったら妥協しないといけないし、いうことも言われへんという立場より、これから非常に厳しい状況にある社民党が少しでも勢力を回復していくためには、独自色と旗幟鮮明、そしてきっぱり筋を通すという方向でがんばっていく、それがいまの退潮をくいとめる方向ではないか」と、私は党の会議でも申し上げました。
しかし先ほどから申し上げましたように、私自身は政権をとるという一点でがんばってきて、自分たちで政権もこしらえたわけですから、泥をかぶりながらでも現実的に理想を達成するために一ミリでも二ミリでも動かしていく、そっちの自分の立ち位置の方が、自分なりにスッキリするんですね。
ですから社民党の今後と、私が思うあり方、自分の立ち位置にずれを感じました。ですから私の方から去っていくという決断をしたというのが、一番大きな理由です。
それで、一人になって何ができるかということも考えました。しかし政治的な行動というのは、個人の意志というのが非常に重要だと思っています。ですから私は、「自分の心の声を聞いて」というと極めてパーソナルな感じがするのですが、自分でのびのびできる自分の新しいスタイルを自分なりにつくりたい――ピースボートをつくったときのようにですね――そんな気持ちで総合的に考えて、離党届を出したんです。
もう一つ、懸念することがありました。いま小さな政党がたくさんできています。しかし全部自民党から分かれて行っているんですね。私はこの間、政権交代はしたものの、日本の政治の中に、いわゆるリベラルと呼ばれてきた勢力というか存在が、非常に影が薄くなっていることへの懸念も感じておりました。リベラルという言葉の定義は別にして、自民党から民主党からいろんなところに、同じような国の形を目指す人が偏在しているのがいまの政治の状況だと思います。
ですからそういう偏在した政治状況のなかで、これから日本の政治は流動化していくと思います。この形のままでずっと行くとは思わない、そう思う人は多いと思います。
そのなかでリベラルという新しいグルーピングができるようなことを、別に大風呂敷を広げて「そのために」とは申し上げませんが、できたらいいなと。そのために自分をフリーハンドにしておきたいなという気持ちもあります。
極めて個人的な政治に対する思いもあっての離党ですので、こんなことで、この由緒ある日本外国特派員協会に呼んでもらっていいのだろうかと思いながらやって参りました。今日はご静聴ありがとうございました。
<質疑応答>
Q、普天間問題について、どのように対処していくのか。
A、私はまず二つのことがあると思っています。一つめは、一一月の知事選挙でどういう知事が当選するかということです。名護市長選挙が今年一月にあり、反対派が勝ちました。私は反対派の市長を応援しました。ですからこの知事選挙の結果によっては、現実的に動かすのは不可能に近くなるのではないかと考えています。辺野古につくるのは現実的に不可能になる。
なぜかというと、先日参議院選挙がありましたが、私は反対の候補者を応援しました。しかし自民党の候補者が勝ちました。しかしこの自民党の候補者も、辺野古に基地をつくるのは反対だといわなければ、選挙をたたかえなかったのです。そして、沖縄県議会は自民党から公明党・共産党まで全部辺野古反対です。民主党の国会議員のなかにも二〇〇人近くの人たちが辺野古につくるのは反対という署名を集めたという経過があります。その人たちとネットワークをしていきたいと思います。
それと、アメリカに対しても「敵意で囲まれた軍事施設はいざというときに役立たない」ということを伝えたいと思います。ですから、姿勢は変わりません。
Q、ピースボートが去年の五月にソマリア沖で海賊に襲われて、自衛隊に救助を求めて難を逃れた。自衛隊の警戒活動に対して考えは変わらないのか。
A、一つは、私は海上保安庁を先日まで所管しておりました。ですから、自衛隊と海保がいっしょになってソマリアに送られていく指揮を、国交副大臣として執っておりました。日本は法治国家ですので、行政の立場になったときには、いまある法律に従って行動するのは当たり前ですから、自衛隊と海保がいっしょになってソマリアで活動することを所管していたわけです。
しかし一方、ソマリアの現状を見てみると、海賊が減っていないという点が一点。それから、本来は海上保安庁所管の業務であろうということで、海上保安庁でも十分対応できるように、予算をつけて「しきしま」というかなり強力な船を今年から建造するということを一方でやっておりました。そして周辺諸国で対応できるように、ジブチとかイエメンとかそれらの国々の海上保安関係の人々を招いて、日本の高度な技術を学んだもらうセミナーなども各国と協力しながらやってきたんです。
そういうオペレーションをしながら、現場へいく海上保安庁や自衛隊のみなさんには、日本は民主主義の国なので、ソマリアへの自衛隊派遣に賛成の人であろうが反対の人であろうが、すべての国民を守る義務があるわけですから、そこはわきまえて仕事をするようにといってきました。
民主党もあの法案に反対しているんですよ。でも反対したと言うだけではなくて、現実にどう対応するのかというときに、全部打ち消すことは現実政治ではすぐ無理ですので、「自分たちが考える海賊対策を求める道を――さっきセミナーとか「しきしま」と申し上げましたように――自分たちが目指す方向に少しでも近づける方向に提案して実現していくのが政治だ」と考えておりましたので、そのように行動しておりました。
たぶん今のご質問、全面否定するんじゃなくて、できることから現実的に動かすと申し上げた私の政治行動の一つの例かもしれません。
Q、先月、仙谷官房長官がプレスクラブで、戦時中の韓国からの強制連行・強制労働に関する補償問題について話しをし、政府として協議してもいいのではないか、と発言された、これまでの日本政府の立場ががらりと変わることを意味するが、これについての意見はどうか。仙谷官房長官の意見に賛成か反対か。
A、仙谷官房長官がどういう具体的な内容についてお話しになったのかわからないので、賛成反対はいま言いづらいです。ただ、アジアとの関係、とくに韓国それから中国に日本を含めて、これから経済的にももっと密接につながっていく時代になる中で、戦後補償の問題や、わだかまりをふくめてすべてクリアーになっているかといえば、私はまだまだ課題はあると思います。それぞれの国の言い分はあるけれども、それを率直にいいあって、解決できることは解決していく、これは日本の未来の発展のためにも必要じゃないかなと思っています。
Q、先ほど「正式に離党できているわけではない」ということだったが、社民党は依然として慰留するというスタンス。それに対してどう対処するか。また辻元離党に伴い社民党内部で党首交代論が出ているが、それについてどう考えるか。
A、私は離党届けを火曜日に出しました。その後木曜日に社民党の方で慰留ということをお決めになったということで、木曜日の夜に私が所属します社民党大阪府連合代表の服部良一議員が、私に「慰留ということになったのでいかがですか」という話しをいただいて、私の離党の意志は固いですと、お伝えを先週の木曜日にいたしました。それ以降誰一人慰留にきませんから、慰留とおっしゃっているけれども、意志が固いということを受け止めていただいているのかな、と思っています。
福島さんが党首でがんばってほしいと思います。私と福島さんは二〇代からの友人なのです。私の方が先に当選をしておりまして、福島さんに立候補要請をしたのも、土井たか子さんと私が口説いて議員に立候補してもらって、それ以降、お互い少ない女性議員のなかで力を合わせてがんばってきたので、私は福島さんの個性を活かして社民党を引っ張っていってほしいと思っています。
私と福島さんの個性はかなり違うんですよ。しかしそこを補完しながら政権の中でも働いていまして、私は調整型で、いろんな調整を目に見えないところでやって、そして福島さんがわっと党首として発言するということもありましたので。ですからそれぞれ少し違う道をいくかもしれないけれど、目指すところは同じだと思っていますので、がんばってほしいと思います。
Q、民主党に入るという考えはあるか?
A、政治は一寸先は闇ですので、民主党もどうなるかわかりませんので、なんともお答えしようがありません。
Q、多数の民意を得ていない政党が政権のなかでキャスティングボートを握って、得られた民意以上の大きな発言力をもつことについての正当性についてどのようにお考えか。
A、選挙の前に少なくとも、「こういう組み合わせの政権を作ります」というのをいって、選挙をたたかうことが必要だと思います。ですから前回のときは、民主党と社民党と国民新党と三党で共通政策をつくり、選挙が終わったら連立政権を担わせていただきたいということを表明して、政権交代をいたしました。やはり選挙のあとでごちゃごちゃっと組み合わせになると、民意を反映していないといわざるをえないので、できることなら選挙の前に、「こういう組み合わせでいくから、それでみなさんどうですか」と世に問うて、連立政権を構成していくのがいいのではないかと思います。
今日はみなさんありがとうございました。私政治活動今年で一五年目で、同期には渡辺喜美さんとか、河野太郎さんとか、この前まで官房長官だった平野博文さんとかみな同期なんですよ。で、今年五〇歳になりました。これから一五年の経験を生かして六〇歳までの間に何ができるかを考えて、一人からの出発になりますけど、コツコツやっていきたいと思いますので、皆さんよろしくお願いします。