つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)

活動報告・国会質問・質問主意書

内閣法制局参事官「未経験」の元大使を長官に━━民主主義の根幹を捨て去ろうとする安倍政権

2013.8.8

国会ブログ

「ナチスの手口に学べ」「静かにやろうや」
麻生副総理の発言が意味しているものが見えたとき、私は背筋が寒くなった。
内閣法制局長官に、内閣法制局参事官「未経験」の元大使を据えるという異常な人事を安倍総理が決めたからである。まさに「ナチスの手口」に学んだやり方なのでは。
内閣法制局には、大きくわけて二つの仕事がある。ひとつは、意見事務。内閣から法律の解釈を求められたときに意見を述べるのだが、憲法解釈などもこれにあたる。もうひとつは審査事務。内閣法制局には閣議にかけるすべての法令案の審査権があるため、法律案などを事前にチェックし、他の法律に抵触しないかどうかなどを審査する。法制局の仕事としては後者の方が比重は大きく、各省庁の法案担当の官僚と膝詰めでする審査は深夜まで及び、一条一条チェックされるのだ。省庁にとっては、法令作成業務を行うに当たって避けては通れない関門なのだ。
その審査に主にあたるのが内閣法制局参事官。各省庁から法律に精通したメンバーが選ばれ、官僚の出向期間としては異例ともいえる5年間、徹底的に鍛えられる。そして、あらゆる法律の中身や関連法令はもちろん、独特の法令用語(誰が読んでもただひとつの解釈がされなければならないため、法令は厳密な文言の使い分けが用いられる。「例とする」と「例による」、「その他」と「その他の」、「係る」と「関する」などなど・・・)を身に着けていく。これらすべてに精通した、職能集団のトップが法制局長官なのだ。参事官経験者が法制局長官になるまで、キャリアは15年から20年が必要といわれるゆえんである。
こうした地道な積み重ねが、法治国家としての日本の法的安定性を支えている。単に「9条」や「集団的自衛権」について持論が述べられればいいのではない。それらは氷山の一角なのだ。
民主主義は、決して「51%の民意をとれば何をしてもいい」というものではない。
民主主義の根幹は、意見が違う人同士が議論をたたかわせ、合意をつくっていくことにある。安倍政権のやろうとしていることは、そうした合意のプロセス、説得のプロセスを捨て去ろうというものだ。
集団的自衛権について、これまでの政府の見解は一貫して憲法9条との関係で行使できないとされてきた。安倍総理はなんとか9条を変えようとしたが、できそうもないのでこの歴代政府の見解の解釈を変更して思いを遂げようとしているのだ。それも自分の意のままに動きそうな長官に入れ替えて。愚かしい。あまりに卑怯な手口と言わざるを得ない。
本当に集団的自衛権の行使を認めたいのならば、堂々と議論し、憲法を変えて実現すればいいではないか。改憲のハードルをさげる96条の先行改正や、人事権の行使で憲法を空洞化させようとするもくろみは一国の総理大臣がすることではない。
こんな安部総理の「手口」を、安部首相の朋友の麻生副首相は「ナチスの手口」「静かにやろうや」と表現したのでは。ワイマール憲法は残したまま空洞化していったナチス政権の手口と同じ発想ではないのか。ナチス政権は「全権委任法」を成立させるために必要な三分の二の賛成を獲得するために、議会運営のルールをねじまげ、反対派の議員を弾圧・逮捕して採決に出られなくし、「合法的」にファシズム独裁をつくりあげた。それがわずか数カ月の間に行われたことを私たちは忘れてはならない。
歴史の書き換えを望む愚かしい人たちは無反省だからこそ、同じ過ちの歴史を繰り返そうとする。麻生発言の本質はここにあり、今の安部政権の体質が、「本音発言」がお得意の麻生副総理の口から飛び出たに過ぎない、と私は思う。