つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)

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2006年3月30日 日本国憲法調査特別委員会

2006.3.30

議事録

164-衆-日本国憲法に関する調査…-6号 2006年03月30日

辻元委員

社会民主党・市民連合の辻元清美です。

本日は、憲法がしっかり社会に根づくために重要なことは何かということについて意見を述べたいと思います。

先週も指摘をいたしましたけれども、憲法は、一つの勢力が選挙で過半数をとってもやってはいけないことを決めています。これが共通認識だと思います。このように、規範としての憲法による縛りがあるので、その時々の議会の数の力や政権の一方的な方針によって政治が振り回されることを防いでいるという枠が憲法だと思うんです。ですから、憲法というものは、政権や状況が変わったからといってころころと変えられるというものであっては困ると思います。

また、自分たちの憲法だという主権者の認知度ないし受容度が高くならなければその憲法が認められないということになりますので、それがないと大きな政治の混乱につながってしまうような性質を持っている非常に重いものだと思います。

ですから、憲法を変える手続法としての国民投票制度について、主権者の間での十分な議論がないままに決められることはあってはならないと私は本委員会で繰り返し警鐘を鳴らしているんですけれども、万一ここで慎重な対応を私たちが怠ってしまったら、今後、憲法をめぐって政治的な混乱、これは国政の場だけではなくて、認知度の問題など主権者の間でも混乱を招きかねないと考えるので、繰り返しこの場で意見を述べております。

社民党は現行憲法を変える必要はないという立場ですけれども、現行憲法を変えたいと考えている立場の人であればあるほど、できるだけ多くの主権者と一緒に手続法についても慎重な議論を展開するという姿勢が求められると思います。

国民投票は主権者のものである憲法をどのようにするかを決めるものですから、どのような手続にするかは主権者がしっかりと納得するものでなければならないのは言うまでもないと思います。自分が大事な選択をしなければならないときに、その方法はいつの間にか決められていて、さあ、この方法で選びなさいと押しつけられるというような印象を持つようでは、納得できないということになりかねないと思うんです。

憲法をどうするかを選ぶということは、主権者一人一人にとって自分たちがどのような生き方ができる社会を選び取るかということにつながると思います。だからこそ、その選択のすべてのプロセスに主権者みずからが関与したいと考えるのは自然なことだと思います。また、十分な関与が確保されたプロセス、手続が不可欠だと思うんです。ですから、この手続についてもきっちりプロセスを踏まないと、たとえ憲法を変えたいという人たちの思いどおり国民投票が実行されるという事態になったとしても、国民投票に参加しようという主権者のインセンティブが高まらないということが考えられると思います。

国民の民意が高まらないと国民投票の実施は難しいと、国民投票を既に行っているヨーロッパの調査でも繰り返し多くの人たちから指摘がありました。このような民意というものは、自分たちのことを自分たちの納得した方法で自分たちで決めるという参加意識からしか生まれてこないと思います。その入り口の方法のところから主権者不在では話にならないということになります。多くの人の参加がないまま低い投票率で選択された憲法では、その正当性が弱いために、政治や社会の混乱につながることも考えられます。

最後にもう一度申し上げたいと思います。ですから、憲法の場合は、通常の事柄のように、手続法だから実務的にさっさと決めればいいというわけにはいかないとてつもなく重要な案件であるので、しっかりと時間をかけて、主権者を巻き込んだ議論を展開することにこそ力が注がれるべきだということを、きょうもしっかり指摘したいと思います。

以上です。

辻元委員

社民党の辻元清美です。

きょうの論点、幾つか出ていると思うんですけれども、私は、共通認識をどう持つかというところの議論を深めてこそ、その土台がないと散漫になってしまうのではないかという問題提起をずっとしてきました。

きょうも、立法不作為論をめぐってもいろいろな意見が出ています。これは法的には、専門家の方をお招きしていろいろ聞いた中で、憲法にかかわる手続法がないことがいわゆる法的な解釈での立法不作為に当たるとは言えないという意見の方が多かったことは、もう皆さん御承知のとおりだと思うんです。素人から見たら、立法不作為という言葉で、何となくそうなんじゃないかと思うかもしれませんけれども、きちっと法的にこの意味を解釈するならば、権利の侵害との関係で、法的にはそれには当たらないんじゃないかという意見が多かったと思います。この立法不作為について反論があるのであれば、それは徹底的にこの場で議論をした上で、それぞれの個別の議論に入った方がいいというふうに私は考えております。

もう一つは、つくってこなかったことは政治の怠慢だという御意見も出ました。しかし、これは政治の選択だったのではないかと私はこの前申し上げました。これは、きょう、護憲政党の人たちが今まで阻んできたというような趣旨の御発言もありましたけれども、そうではないと思います。歴代政権をとってきたのは自民党中心です。私は、賢明な御判断を、今まで、戦後六十年間されてきたんじゃないかと思います。その重みをきちっと私たちは受けとめた上で、非常に、ひょっとしたら時代の大きな曲がり角になるかもしれない議論をしているということの認識が必要だと思うんです。ですから、怠慢と言うよりも、与野党を超えた大きな政治の選択として制度をつくってこなかったと言う方が、今までの政治状況を見たら正しい表現ではないかというように私は思っております。

ですから、私自身はその政治の選択を今直ちに変える時期にはないというような判断ですけれども、それぞれ認識があると思いますので、そのような根本的なことについても、議論は深めた上で話をした方がいいと思うんですね。例えば、怠慢だとか不作為だというような言葉というのは走ります。一見説得力がありそうに見えて、それを根拠に、憲法についてどうするかという、手続法も含めて議論をするということこそ政治の怠慢ではないかというように思います。

最後にもう一つ。前回も提起しましたが、硬性憲法である日本国憲法の意味を私たちはどう受けとめるか、そこの共通の認識も必要だと思うんです。

斉藤委員の方から十年に一回ぐらい二、三点という話があったんですが、私はあれには賛成できないんですね、硬性憲法という意味で。といいますのも、憲法というのは、憲法のこの部分を変えないと本当に政策的にもにっちもさっちもいかないという部分があって初めて変えるものである。ですから、例えば環境権の問題を根拠にした場合に、環境権がなかったら政策的に弊害がたくさん出てくるというのであれば、環境権を入れましょう、変えましょうという議論は成り立つわけですが、これがないと本当に困る、変えなきゃ困るということがあって、初めてどうしようかという議論をしないと、憲法というものの持つ規範が崩れると思います。皆さんの中にも、環境権だけを入れたいから大々的に国民投票をやって変えるべきだという議論をされる方はいらっしゃらないと思うんです。

そこで、今、愛知委員から御指摘があったアメリカでの話ですけれども、一つの争点はやはり九条なんですよ、九条自体を変えないと……。今いみじくもアメリカでの意見とおっしゃいましたけれども、アジアに行ったらまた違う意見が出てくるわけです。ですから、九条を変えないと困るとアメリカも思っているのかもしれないし、そう思っている人たちが主導している、そこの部分だけが、変えないと困るんだという強い意思を持っている人がいる部分じゃないでしょうか。

ですから、環境権その他は、そうであるならばついでに入れておきましょうか、よりよいものにしましょうかという議論が先行していっているというふうに私は懸念をしております。立場としては、九条は変える必要はないということに立脚して、そして、硬性憲法であるという、そういう立場で一言発言いたしました。

終わります。